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藤井秀全:Staining /Gradation
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 8月 04日

《Staining#2》 
画像提供:TAMURA Akio gallery
Copyright © Hidemasa Fujii

TAMURA Akio Gallery では昨年に引き続き、2回目の藤井秀全展を開催いたします。 昨年はアクリルボックスの内部に配置されていたLEDが、今回は外部に晒されるように配置され、それらが作り出す色彩を帯びた光の交錯が、不思議なイルージョンを創り出す作品が展示されています。

「美しい」という言葉を美術作品に対して不用意に使用することは、その作品の性格や価値を確かな眼で見ない時の一般的な表現として使われることが多いので、なるべく避けるべきでしょうが、今回の藤井秀全の作品に触れてみたとき、「美しい」という禁句にも似たキーワードが自然と復活してくる体験をされることでしょう。

「9.11」、さらに「リーマンショッ ク」以降、「リアリティー」という概念がそれまでのような切れ味を無くし、ボロボロと刃が欠けるような情況に急激に変化している中で、今回の藤井秀全の作品の「美しさ」には確かな手応えを感じます。言葉で示される概念に基づく作品理解ではなく、作品の前で直接身体が反応する瞬間を体験できるのではないでしょうか。

藤井秀全の作品は、おそらく誰もが青年期に感じるであろう、現実に対する違和感や、反発心、あるいは世界の中で漂っているように感じられる自己の確認にまつわる、整理しきれない情感の発露の手段として造形表現を選ぶという誠実な選択をしたのではないか、と感じられるような表現レベルに達しています。

展示されている作品に感じる不思議な心地よさは、世界との親和の希求に起因するように思われます。作品を知的に理解する楽しみの機会を与えてくれるだけでなく、触れられるような心地よさがあり、おもわず脳は身体の中にあることを確認させてくれます。

しばらく展示空間に留まっていると、作者は心地よさを通して世界を語ろう、あるいはその再構成を図ろうとしているのではないかとも思えてきます。 LEDはそのために作家が選んだコトバの役割を果たし、その媒体の色光によるフォーミングは、自らの意識の深いところにある説明できないモヤモヤとしたものを表現するのに最適なメディアとして存在しているようです。

眼に見える光る色があり、質感を感じるように思えるものの、手で触れることは出来ない。それでいて身体が反応するエネルギーを持っている。そこには宇宙を意識させる不思議な現実感を感じることもできます。いたずらに<現実>を拡大してみせたり、出来合いの世の中感に依る安易なメッセージ性で事足れりとするのではなく、個人の密やかな試みとはいえ、私たちが自らを包み込んでいる停滞した空気層の中に、静かに提示された藤井作品のやさしいインパクトは、不思議な安堵感と展望を与えてくれるという意味でも、成功していると言えます。

美しいものを再現するのではなく、表現されているものが美しい作品。それらに包まれ、安らかに身体が反応し、現実を超えたイメージを体験する楽しみを味わえるのが、今回の藤井秀全展です。

美術はイマジネーションによる可能性追求の試みであることを、ここでもまた、知らせてくれているようです。

※全文提供: TAMURA Akio gallery


会期: 2010年7月24日(土)-2010年8月7日(土)

最終更新 2010年 7月 24日
 

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