上原徹:INERT MODULES |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集 |
公開日: 2010年 8月 03日 |
写真の原初的な機能とは、カメラの前にあった現実を画像として保存する点にあります。対象なり情景なりを見つけ諸々の設定を整え、シャッターを押す。カメラは文字通り機械的に、現実を画像へと変換します。 いま「機械的に」と記しましたが、カメラが人の意図とは無関係に、機械的に現実を写す点-逆に言えば機械的にしか現実を写せない点−は、写真の持つ大きな特徴だといえるでしょう。すなわち、写真においては「見てはいたが意識していなかったもの」が写し出されるのです。 例えば、今にも崩れ落ちそうに脆く、良い風合いに錆びついた褐色の脚立は、本物らしさを失いつつも、本物より美しい姿を感じとることができます。唯一無二、すなわちオリジナルの意味を強く訴えかけます。大西の作品は同時に、型取りという「版表現」であるがゆえに量産可能であるという、紛れもない事実に一種の儚さを感じとることができないでしょうか。 もっとも写真のこのような特徴はこれまで散々指摘されてきたことであり、そうした指摘自体、真新しいものではありません。そのようなコンセプトを持つ表現を行ったとしても、決して今日的な表現にはならないでしょう。では、どのようなコンセプトを持った表現が、写真の今日的な表現と呼ぶにふさわしいのでしょうか。 本展の上原徹は、この問題に対し、先に挙げた「見てはいたが意識していなかったもの」という言葉に立ち戻り回答を与えようとしているように思えます。もちろん写真に何が写し出されているのか、というレベルにおいて回答しようとしているのではありません。新たな「見てはいたが意識していなかったもの」を探り、それを提示しようとしているのです。 では、上原の模索する「見てはいたが意識していなかったもの」とは何でしょうか。それは端的に言えば、写真そのものです。そこに何が写されているかではなく、写真そのものへと意識を向けること。そのようにして上原は、「見てはいたが意識していなかったもの」を示そうとします。 なお、本展のタイトル「INERT MODULES」とは直訳すれば「不活性なモデュール」という意味であり、上原が「不活性な、機能が不明な遺伝子」という言葉から連想し造語した言葉です。 上原徹 UEHARA Toru ※全文提供: AD&A gallery 会期: 2010年7月30日(金)-2010年8月11日(日) |
最終更新 2010年 7月 30日 |