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野原健司:曇りのちファインプレイ
展覧会
執筆: カロンズネット編集   
公開日: 2010年 5月 28日

画像提供:児玉画廊

昨年、個展「逆さまDrop」(児玉画廊|東京)においてこれまでとは一線を画す大胆なインスタレーションで新たな局面を見せた 野原健司。多要素なペインティングやドローイングはもとより、廃品や既製品を使った立体に鏡や樹脂で光や水の表現を取り込み、それと呼応するように、床に点在する水たまり型の鏡のプレートが光を照らし返しながら、空間の逆像を映し出し、児玉画廊|東京の起伏ある形状と相俟って、上下の感覚を文字通り覆すような空間を作り出しました。今回もまた、そうした最近の野原の主たるテーマである光や水を意識した素材と、ジグザグと反射したりフラクタルのように無限の繰り返しや、溢れ出すように流動的な構造を多用して空間そのものを別の道理で作り変えてしまうような世界観を、 別のアプローチから展開する構成となっています。

拾い集めた廃品を使って、雑多なものを詰め込むようなインスタレーションが野原の常ですが、「逆さまDrop」では鏡が水や光、あるいは反射/反転を繰り返すイメージを表していたように、毎回必ずイメージの起点となるものが存在し、今回は古びた物干し台が空間の要となって、その役割を果たしています。洗濯物がまるで着る人のことを忘れてしまったようにゆらゆら風になびいているのを目にしたとき、その空っぽの内側にイマジネーションが滑り込んで膨らんでいくような、そういう世界観を表現しようとしているのだと、野原は言います。「雲を掴むような」とは言い得たものですが、野原にとってイマジネーションは雲や煙、水といった捉えどころのないものと同じで、ちょっとした隙間に入り込んでは蠢いて、作品を生むきっかけを残していきます。

また、時として作品にはその用途を終えた最早何の役に立たないだろうと思える素材が敢えてその主格として選ばれます。単に日用品であるということ以上に、時を経た物が既に何かしらのストーリーを秘めているような、作家の表現を借りて言えば「いい感じにボロ」であることが最も重要となるからです。使い古されくたびれ痛んだ傷や汚れが、作品の世界観に身近な現実味を生むと同時に、野原の奇想と現実世界を繋ぐ綻びとなっています。

今回発表される凡そ3メートルに及ぶ巨大な平面作品では雲型に成型されたパネルの形状に多量の樹脂を重ね、描かれたモチーフや貼り合わせたオブジェのソリッドな感触、それでいて雲散霧消、捉えどころの無さが、展覧会の空気感を象徴するようです。楔形に狭まって行くように設えた空間の一角では両側の壁面に鏡を設置し、綿棒を網状に繋いだ造形物が延々と映り込む、まるで罠のような合わせ鏡の奥へ奥へとそのまますり抜けて行けそうな錯覚に陥ります。野原が追い求めて表現しようとしている見えない向こう側、得体の知れない何か、それらはわくわくと待ち焦がれるような気持ちの高ぶりを作家自身にも、作品を通してそれを見る側にも起こさせます。

「逆さまDrop」が光に満ちた雨上がりの景色だとすれば、今回はまさに曇り空から晴れ間を待つ「曇りのち…」のシチュエーションと言えるでしょう。何が起こるか、冒険心にも似た期待と不安に心を踊らせながら、野原の領域に思い切って踏み込んでみれば、そこは全てを払拭する晴れやかな世界が広がっているのかもしれません。

※全文提供: 児玉画廊


会期: 2010年5月29日-2010年7月3日

最終更新 2010年 5月 29日
 

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