| EN |

吉川陽一郎:ながめとまなざし- 眺望/視
レビュー
執筆: 田中 みずき   
公開日: 2010年 5月 10日

fig. 1 《室内の風景 Interior paysage system》2010年|鉄、木、レンズ、オブジェ 画像提供:プラザ・ギャラリー|Copyright © Youichiro Yoshikawa

fig. 2 《表微線探査 トレ・リーダー》2009年|135×49×50cm|塑像台、鉄、合板、ターンテーブル、CCDカメラ、液晶モニター、LEDケーブル|画像提供:プラザ・ギャラリー|Copyright © Youichiro Yoshikawa

    私達は、新しいものに餓えている。既視感に耐えられず、テレビや雑誌や新聞、インターネットで観られるものを次々と消費していく。しかし、本当に欲しいも のは、新しい存在自体ではなく、新しい視点なのではないか。そんなことを考えさせてくれる展覧会が東京・調布市のプラザ・ギャラリーで開かれた。
    展示作は、長年彫刻を作ってきた吉川陽一郎による新作インスタレーション1点と近年作の立体1点、版画7点、そして旧作の小オブジェ7点。

    新作の《室内の風景 Interior paysage system》(2010年、鉄、木、レンズ、オブジェ)[fig.1]は、展示空間の横5m弱の白い壁一杯を使った大作だ。壁には、吉川が制作してきた 小さな作品群と、彼が道で拾って持ち続けた缶やパイプが並ぶ。その前に、巨大な装置が佇んでいる。縦250cm×横434cmの鉄のフレームに取り付けら れた、縦横に動く木枠のレンズだ。木の部分には削り跡が残り、作者が作品に向き合ってきた長い時間が感じられる。人間の顔位の大きなレンズは、潜水艦の窓 のようだ。手で産み出されたものに囲まれて潜む体験から、子供の頃、路地裏に作った隠れ家を思い出した。
    鑑賞者は自らの手で装置に触れ、壁にな らんだモチーフの前までレンズを移動させて観ることができる。すると、顕微鏡を覗いたときにわくわくする気持ちが呼び起こされる。小さなオブジェは、モ チーフの重なりかたや空中に飛び出してくる傾きがレンズを通して目前に大きく写しだされて美しい。表面のマチエールや、ポイントとして付された途料の鮮烈 な色彩が目一杯に広がる作品の気持ちよさも素敵だ。鑑賞者は、じっくりと細部まで物を見つめる面白さを体験していく。また、壁に並んだ缶も、レンズを通し て観るとその表面に錆のざらついた粒子が広がる様子や、千切れた先端部分に儚さが見て取れる等、不思議な存在感を孕んでいる。作者が手を加えて作ったもの と、作者によって選びとられたものには共通する要素があるようだ。どちらも大きさは手のひらに乗る程度だが、空間での佇まいに重みを感じさせる何かが孕ま れている。両方を眺めていると、作者の眼差しそのものを追体験する気持ちになっていく。その「もの」たちを、装置を使って細部まで注意深く見つめるうち に、私達は新しい視点を得てしまうのだ。また、装置を自力で動かすことで自分がどこから観ているのかを意識したり、レンズに顔を近づけるうちに、裸眼では 観られないものを観ていることに気づいたりする点も見逃せない。自分が観ているものが何かと考えさせられ、あるいはまるで自分が小さくなった錯覚に陥り、 改めて「観て理解する」ことの不思議さがじわじわと迫ってくる。

    ほかに、子供や小動物のような低い視点から風景を観られる双眼鏡のような装置が展示されている。《表微線探査 トレ・リーダー》(2009年、 135×49×50cm、塑像台、鉄、合板、ターンテーブル、CCDカメラ、液晶モニター、LEDケーブル)だ[fig.2]。これもやはり装置を通じ て、新鮮な視点を提示する。さらに他の作品もあわせると、作者が多様な表現方法を試みてきた跡を辿れる。どの作品にも通じているのは、物と物との関係性を 丁寧に手や皮膚感覚を使って確かめようとする姿勢だ。
    これらの作品が教えてくれる、観てわくわくする体験を、私達は忘れてはならない。体験から得られた眼差しは世界の見方を変え、どこに居ても失われない財産となるのだから。

最終更新 2010年 7月 04日
 

関連情報


| EN |