宮永亮:ウォンジナ |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2009年 7月 17日 |
宮永は今年3月に京都市立芸術大学大学院絵画専攻造形構想を修了、在学時より映像作品によるインスタレーション、VJなど幅広い創作活動、発表を続けてきました。「アートアワードトーキョー丸の内2009」(行幸地下ギャラリー)や「ヤング・パースペクティブ2009」(イメージフォーラム)への出展など、より多くのオーディエンスの目に触れる経験を積みながら、積極的な活動を始めています。 今回展示される「Wondjina」(2009年)「RAINY LETTER」(2008年)はいずれも水や雲など自然の風景を撮影した実写の映像断片のみを素材として、様々な効果、加工を駆使し、編集されることよって作り出される映像作品です。宮永にとって映像とは、現実を記録する為の媒体として、においや感触を残す事は出来ないという点において感覚的に不完全なものであり、更に、予め三次元のものを二次元に減じるという制約が与えられている点においてもまた不完全であり、しかしながら、その不完全性こそ映像が美術表現であり得る理由である、とも捉えています。 宮永の作品は大量の映像素材を編纂する事で完成されますが、断片的に記録されたそれぞれの映像は個々に独自の事象を捉えた物であるがために、一つの時間軸を伴う作品として紡いでいくためにはその断片の、言い換えればそれぞれの事象に繋がりを持たせる為の意味を与える或は見出す行為が必要になります。宮永の映像作品において、「与える」行為とは映像の加工によって特定の意図を与える事、それは時には半ば強引なエフェクトによって自然ではあり得ない状態を作り出す事や複数の映像断片を重ねてより多くの情報を視覚的に与える事であり、また「見出す」行為とは宮永によって映像化された事象/現象が根源的に何であるのかを探る行為、つまりは宮永の美意識が感応する理由がその映し撮られた事象/現象に見出されるのならば、それら全てを普遍的なものとして感じられる所にまで掘り下げ、自ら読み解いていく事によって、例えば平易な言葉で物語を編むようにして、一つの作品として纏めていくという行為にあたるのでしょう。 あるいは、物事に隠された1つの秘密を見つけ出そうとする 不完全性から喚起されるのは作家にとっても見る側にとってもイマジネーションの飛躍、或は増幅、それらは「RAINY LETTER」においては雨粒の作る波紋という現実にある現象が、それを連ねることで文字を象るという非現実性と結びつくことで恣意的に行われ、また、視覚的にはダブルサイズでのプロジェクションによる大画面が本来雨粒という刹那的で微小なものにフォーカスしズームして見せる為の増幅装置として機能すると同時に、それによってあり得ない視点を得た見る者の想像力をも(相対的に)加速・拡大させます。また「Wondjina」では、アボリジニの精霊に準えたタイトルが示すように、より根源的なものへの回帰の暗喩であり、自然の揺らぎを保った情景のシークエンス、水辺や空の蕭々とした様を思わせるシーンが現れては消え、自然な感情の昂りがそれらに呼応し沸き上がってくるようです。 ※全文提供: 児玉画廊 |
最終更新 2009年 7月 18日 |
一階に流している映像≪Wondjina≫(2009年)はその始まりからは、自然現象をソリッドに加工しただけの作品のように見える。しかし時間に負けることなく見続けさえすれば、映像であるからこそ可能な、超自然的とも言えるアクロバティックな世界の様相を目の当たりにするはずだ。加工され編集された大量の〈自然〉の断片は、あたかも世界の始まりとも終わりとも見受けられる。同作品がマクロな広がりを持つ一方で、一階の吹き抜けからも視界に入る二階での展示作品≪RAINY LETTER≫(2008年)は雨粒の波紋を用いたむしろミクロなものだ。この振り幅が展示に奥行きを与えている。