鎌田友介:After the Destruction |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集 |
公開日: 2011年 5月 12日 |
鎌田は東京藝術大学先端芸術表現科在学時より精力的に立体作品及びインスタレーションの制作発表を続け、昨年トーキョーワンダーサイト本郷において開催された個展「OTHER PERSPECTIVES」では絵画/彫刻/建築をクロスオーバーするようなグレーな領域におけるイメージを可視化する、という鎌田の制作における主要なテーマを端的に示してみせました。本展「After the Destruction」は児玉画廊で初めて鎌田を紹介する機会となります。 鎌田の作品は、視覚による認識について多角的に捉え直そうとする試みであると言えます。例えば、建築や機械の設計の際には、投影図法を用いて平面上に立体構造を表現しますが、鎌田の場合は投影図の法則に則って縮小されたり歪められたりした描写を、そのまま木材や金属のフレームによって再現します。横から見れば一目瞭然ですが、それはハリボテのように菱形や台形といった図形を平面的に組み合わせたものでしかないのに関わらず、知識としてそのような形が図面上では立体を表す、と知っている我々の目は、ついそれが空間的にも立体的なものであると錯覚してしまいます。鎌田の作品はこのように絵画的で錯視的なパースペクティブによって、観衆の視覚を混乱させるように仕組まれています。絵画における遠近法のように、様々な方法論によって平面上に仮想の空間を認識出来るように意識付けられてきた、今我々が持っている空間感覚、それを覆してしまいたいという衝動に鎌田は駆られているように思えます。 「一つの消失点に向かって世界を統一させることが西洋絵画における遠近法であったなら、現代の遠近法とは多数の消失点が乱立している状態なのではないか」(卒業制作展図録より抜粋)という鎌田の仮定にあるように、「多数の消失点」という意識、基準となるべき点が無秩序に且つ幾つも混在するというイメージは、現実世界の空間を新たに捉え直すための一つの実験的発想のように思えます。例えば「100の定義」(2009年制作)がその良いモデルとなっています。文字通り100個の図形が連なるインスタレーションで、前述の仕組みによって、やはり一見すると箱型の立体物が空間にいくつも浮かんでいるように見えます。この作品では、まず100人(芸術家や哲学者など)が言葉に残した芸術についての100通りの定義/解釈を拾い集めて、そのテキストからイメージされる矩形をドローイングにしていきます。そして次にそのドローイングを元に、木材を使ってその投射図の形そのままを作ります。そして空間にそれらを配置していきますが、100ある図形は皆一様でなくそれぞれ無秩序に歪んで見えるので、ランダムに配されているようにしか見えません。しかし注意して見ると、100個全部の総体としては一個の大きなキューブを形作っています。ここで重要なのは芸術という概念を定義する、という思考的な作業が、鎌田の手を経る毎に空間と形とを徐々に伴っていくプロセスです。100の主観が交錯する情景をイメージするとそれだけでも壮観ですが、何より、形のないものを形あるものとして固定/定義する、つまりは空間的な現象に変えてしまう、という、何か固定観念を大きく揺るがすものがあります。「多数の消失点」についての考察をより拡大させ得る可能性をも示し、今回の作品にまで至る一つの指標であったと言えるでしょう。 今回の個展では、新たな空間認識を獲得する為の、言うなれば破壊でありリセットであると言えます。建築や風景を平面上で模する為に作られた絵画的方法論に裏付けられた空間認識によってではなく、「多数の消失点」ここでは個々の人間の主観に基づいた視点に立ち返り、それを視覚化するための試みです。鎌田はこれまで遠近法などの法則/理論の象徴として非常に直線的な造形を意識して多用してきたのですが、今回はガラスの地平面を堺に全方向に連続性を感じさせる動的な 構造に加え、ねじ曲がった廃材のアルミフレームというこれまでの鎌田の作品とは大きく趣を異にする有機的で不確定な造形が作品を構成しています。それは「After the Destruction」の文字通り、抗い難い力による破壊を象徴するようです。二次元でもなく三次元でもなく、という空間感覚の倒錯が如何に具現化されるのか、今回の破壊と解体によって如何なる現象が立ち表れてくるのか、ここでの性急な推論は控えられるべきでしょう。 ※全文提供: 児玉画廊 会期: 2011年5月14日 (土)-2011年6月11日(土) |
最終更新 2011年 5月 14日 |