桑山忠明:静けさのなかから |
レビュー |
執筆: 桝田 倫広 |
公開日: 2010年 12月 09日 |
「視野に入ってくる両側の広がり、そして何よりも、見る者を佇立させる作品との間の隔たり、空間。「見ること」におけるこの間が、透明に抜け落ちてゆかない、そのこと自体が問題となる」※1 市川正憲が述べているように、桑山忠明の絵画は、私たちのまなざしを、「見る」という行為そのものが生起する場へと向けさせる。例えば《無題》(カンヴァスにアクリル、1966年)は、メタリックカラーに塗られた四分割のパネルを接合した作品である。このいわゆるモノクローム絵画は、アド・ラインハートなどの抽象絵画を思い起こさずにはいられない。しかしながら、ラインハートの絵画の前に立った時に感じる色の深層へと没入していくような感覚、あるいは絵画に抱かれる感触を、桑山の絵画から感じることは難しい。何故ならば桑山の絵画における画面の縁と、画面の中央を縦横に貫く無機質なアルミ製の縁取りが、桑山の作品を遠巻きから見る時にはもちろんのこと、至近距離から見る時にさえ、視野にちらつくために、私たちは絵画空間へ没入することができないからである。桑山がメタリックカラーによって絵画を仕上げることも、こうした作用を強化させる。メタリックカラーに塗られた絵画へと投げかけられているスポットライトの光は、絵画の表面を照らし出し、絵画の表面を上滑るように折り返し、光そのものとして私たちの目に飛び込んでくる。桑山の絵画を、何らかの記号あるいは再現として見ることはできないし、その絵画空間へ没入することも難しい。ゆえに、桑山の絵画は私たちに「腑に落ちない」感情を喚起させ、普段感じることのない、見るということそのものの緊張感を露わにする。このように捉えてみれば、桑山は、作品と私たちの間に生起する関係性、つまり絵画が絵画として成立する観念的な場に関心を抱いていると思える。 山田諭が「物質の時代」※2 と定義づける1990年代後半より始まる空間インスタレーションとも言うべき彼の作品もまた、これまでの絵画制作の延長線上にあると考えられる。とりわけ近作である《Untitled》(アノダイズド・アルミニウム、各8点、2008年)は、金銀に塗られた分銅のようなものが、交互に並んでいるだけの作品である。一切の塗りむらも許さない均質な表面は、その周りを歩くたびに光の反射の角度を変え、私たちの目の前に常に新鮮な表情を見せてくれる。しかし、この作品はこれら分銅のようなもの、それ自体を芸術作品として提示しているわけではないだろう。それ単体では空間を構成する最小単位―桑山の言葉を借りれば「ユニット」―であり、このユニットの統合によって作り上げられた「日常生活における機能を求められない」空間が、「そのままで「美術」になる」※3のだ。桑山は自身の作品を絵画から空間インスタレーションへと発展させることで、あるものが芸術として立ち現われる「空間」そのものへと自身の作品を拡張させてきたと言える。 しかしながら、「絵画」の体裁をとる作品群といわゆる「物質の時代」におけるインスタレーションとも言うべき作品群との間には、ある大きな差異が横たわっているのではないだろうか。例えば、前述の《無題(ゴールド、シルバー)》では、作品の設置される場所に光沢のあるリノリウムシートが敷かれ、まばゆいほどの白い空間が現出している。私たちは監視員に靴を脱ぐように指示され、注意深くその作品の周りを歩きながら鑑賞することになる。あるいは《無題(ゴールド、シルバー)》(アノダイズド・アルミニウム、2パネル、2003年)は、やはり工業部品のような無機質なユニットによって構成される作品で、視線よりも極度に高い位置に据えられている。これらは日常とは明らかに異なる空間である。この展示空間自体は、私たちが靴を脱いだその瞬間から、あるいは首を大きく上に傾げたその瞬間から、桑山のユニットを「作品」として認識して鑑賞することになるように仕立てられる。一見、工業部品のように見える桑山の作品それ自体が空間を変貌させるのではなく、私たちの認識が、その空間を芸術へと変化させるように空間がうまく仕立てられているのだ。このことが、彼の絵画作品の性格と大きく異なる点と言えるかもしれない。なぜなら桑山の絵画作品が、その形式、形においてあくまで絵画の体裁をとりつつも、何らかの意味を持つ記号として見ることや再現的な見方を拒むことで「見る者と作品との隔たり」を露わにするのに対して、「物質の時代」の作品群は、この隔たり自体が作品成立の基盤となっていると捉えられるからだ。換言すれば、この作品を知覚する上で不可避的な作法として私たちが靴を脱ぐ、あるいは見上げる、といった身体的作用が介在しているために、私たちがこれらの作品を見る時、私たちの知覚は特別なもの―日常にありふれたものとは異なる「作品」―としてこれらを見るあるいは体験するというモードに無意識的に切り替わっている。まさにこの隔たり、私たちと作品との間に横たわりながら、通常、自覚されることのない無意識的な切り替えによって初めて空間が芸術として呼びうる何ものかへと変容している。このように捉えれば、この空間はそのまま芸術にはなりえないのではないだろうか。 だが、あるものを芸術と認識してしまう私たちの無意識的な切り替えを、私たちの作品を見るあるいは体験する行為に介在させ、かつ顕在化させること自体が、桑山の目論見だとしたらいささか状況は異なってくる。平明かつ乱暴に言ってしまえば、つるつるの分銅が芸術に見えてしまうという現象は、それらが美術館に、さも意味ありげに置かれていることによって初めて成立する。そしてこのような制度的な場所において、あるものが置かれることで、それらを即時的に芸術として認識してしまう私たちの鈍感さを桑山作品が露わにしているのだとしたら、桑山が作りだす空間それ自体は、「非―芸術空間」というべきものではないだろうか。そこには、禅的な美や純粋芸術などがあるのではなく、ただ虚無的な隔たりがあるのみだ。だがそれが故にまなざしをそらすことのできない特異な空間であろう。 脚注 ※1 市川正憲「桑山忠明:作品から空間へ」『桑山忠明ワンルームプロジェクト2006』愛知県美術館、名古屋市美術館、2006年、p.2 ※2 『静けさのなかから:桑山忠明』名古屋市美術館、2010年、p.52 ※3 前掲書、p.51 参照展覧会 「桑山忠明:静けさのなかから」 |
最終更新 2010年 12月 28日 |