宮澤男爵:宙吊り/ in mid air |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集 |
公開日: 2010年 2月 26日 |
宮澤男爵は2004年に東京都が主催する公募展「ワンダーウォール展」で入選。2008年に古林希望との二人展「消息comings and goings」を開催以来、グループ展やアートフェアで作品を発表しています。宮澤にとっての初の個展となる本展では、近年に作家が描き上げたドローイングの作品群を、大量に展示する予定です。 西洋の絵画の伝統は、肖像画、風景画、静物画の区分を常に継承してきましたが、20世紀初頭の抽象絵画の登場は、そのカテゴリーを無効化してしまいました。貨幣という抽象的手段が世界に市場を広げたように、抽象美術も近代的世界に広がりました。昨今の日本で具体的絵画が復活し注目されたのも、実は抽象絵画が世界を席巻したことを前提としているのです。 近代の肖像画が個性を表現していたとすると、あらゆる個別性を市場で交換してしまう現代において、肖像画は何を意味するものでしょうか。どんなに具体的な形象を描いていても、市場では抽象的な価値に還元されてしまいます。パロディーとして、あるいはナイーブな感性をもって示した日本の現代アートの人物造形は、もはや肖像とは遠い所に位置するはずです。 宮澤男爵は、上述のような市場と完全に分け隔てられた空間で、つまり美術教育を受けずに、作品を制作してきた作家です。鉛筆と水彩を使って描かれたドローイング作品には、無数の丸や点で構成された人の形が表されています。繊細かつ極細の筆致は、具体的な形となって画面上を移ろいます。そしてこの束の間の移ろいを宿す紙面こそ、市場拡張によって薄められた現代人の「個性」が顕現する場なのです。
作家略歴 ※全文提供: 東京画廊+BTAP
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最終更新 2010年 3月 20日 |
何ごとも「濃さ」や刺激を要請する時代にあって、宮澤男爵の描く薄く消え入りそうなドローイングははっきりとしない茫漠した作品に見えるかもしれない。だが、色数の少なさ、極細の筆致、フラジャイルな線は表現の「薄さ」を意味するものではない。
むしろ増殖するように描かれた無数の丸や点の集積が作り出す人物や顔、消しゴムで消した痕跡が造形へと加担する豊かな形象の連鎖は、印刷では見えてこない絵画面の豊かなざわめきを見てとることができるだろう。
宙吊りにされた揺らぐ「絵」を目で捕まえてほしい。それは「濃さ」になれた私たちの感性に新たな空気を注入してくれることだろう。