成層圏Vol.2:増山士郎『行為の装填』 |
展覧会 |
執筆: カロンズネット編集 |
公開日: 2011年 3月 31日 |
【キュレーターコメント】迷い犬の流儀 -鈴木勝雄 増山士郎は、現在北アイルランドのベルファストに暮らしている。周知のとおり北アイルランドは、カトリックとプロテスタント、あるいはイギリスからの分離、アイルランド島全島独立を主張する「ナショナリスト」とイギリスとの連合維持を唱える「ユニオニスト」の根深い対立によって分断された紛争地帯のひとつである。 増山は、アーティスト・イン・レジデンスで滞在しているわけではない。フィールドワークの対象として自らすすんでこの地を選択したわけでもない。たまたま、縁あってここでの生活が始まったにすぎないのである。当初は、噴出する暴力に神経が強張り、作品を制作する余裕などなかったはずだ。増山にできたのは、ベルファストを彷徨いながら、街中を走る分断線を知らずに踏み越え、その度に身体を貫く緊張をひとつひとつ覚えこむことだけだった。 二つのコミュニティーの深い溝を目の当たりにすればするほど、増山は自分自身が第三者的立場にあることを強く自覚したことだろう。と同時に、こうした二項対立的に硬直した状況を相対化する視点を提示できるのもまた、第三者の特権であると気づいたのではないか。その時増山は、ベルファストに暮らす異邦人アーティストとしての社会的な役割を引き受ける覚悟を決めたのだ。衝突の現場から距離をとって冷静に観察するアイロニカルな態度を武器に、二項対立的な発想にズレを生み出し、亀裂を入れるという、ほとんど不可能とも思われる賭けに打って出たのである。 北アイルランドのような分断された社会においては、そぞろ歩き自体が、既存の境界線に対する密やかな撹乱行為となりうるだろう。双方のテリトリーを無化することを狙って、不躾な第三のテリトリーを、いわば虫食い状に広げていくこと。それが増山という迷い犬の戦術なのだ。 【作家コメント】行為の装填 増山士郎 こうした表現を考えるうえで、1960年代から70年代に繰り広げられたハプニング、ボディ・アート、コンセプチュアル・アートなどの様々なパフォーマンス(行為)の実験の遺産は、何度でも反芻すべきインスピレーションの宝庫となるだろう。しかし、学生運動やベトナム反戦運動、公民権運動やフェミニズムに沸いたこの時代とは、社会的、政治的状況が大きく変化しているのもまた事実である。「変革の手段としての芸術」を構想するにしても、60~70年代と現代とでは、その意味も、作家と鑑賞者の意識も、具体的に社会に介入する戦術も異なってくるだろう。いま必要なのは、このような明確な歴史認識を踏まえて、現代における抵抗の実践たる芸術的「行為」の可能性を、アーティストと鑑賞者の対話を通して検討することであり、その身体化された想像力を各自の体内深くに埋め込むことなのである。 2004年からベルリンを拠点として来たが、今現在、北アイルランドはベルファストに活動拠点を移そうとしている。ここベルファストは北アイルランドの首都としてカトリックとプロテスタントの宗教間、英国とアイルランドの領土問題をめぐり争いが絶えることのない地である。ロンドンの日本大使館がひっきりなしにテロに対する注意勧告メールを送ってくるとおり、つい先日もよく行く近所のDVDレンタルの前に爆弾が仕掛けられ近隣一帯が避難する騒ぎとなった。 心配性の日本人が住みたがらないのは無理もない。日本人に出会ったことが一度もないように(現地の男性と結婚して在住する日本人女性は何人かいるようだが)、ベルファスト在住の日本男児はおそらく自分一人ではないかと勝手に思っている。 今まで戦争や紛争の経験などなく、政治に無関心となっていた自分が、このような紛争による危険と隣合わせの環境に身を置いたことで、否が応でも普段から政治や人種や領土などの問題について考えるようなったのは、思えば当然の結果であろう。 今回の展覧会で初めて発表する新作「The Heart Rocker」では、争いによるトラウマのために閉鎖的な白人社会の中で、誰の目にも部外者でマイノリティである日本人アーティストとしての自分立ち位置が浮かび上がってくるのではないかと考えている。 増山士郎 ますやま・しろう ※全文提供: gallery αM 会期: 2011年5月21日(土)-2011年6月25日(土) |
最終更新 2011年 5月 21日 |
宗教問題や領土問題を抱え、緊張状態にある北アイルランド・ベルファストを拠点として作品制作を行う増山による展覧会。展示作は、映像作品2本と、街の模型、そして映像作品関連の展示品と、街の画像である。日本では考え難い政治的緊張が、ニヒルな笑いを込めた作品を通じて鑑賞者に迫ってくる。
映像作品「Crossing the Border」は、4分。厳戒態勢のスキポール空港(アムステルダム)で作者が小さな挑戦を試みる。現場の政治的緊張と相まって、本来であれば笑ってしまう試みでありながら、笑えないような後味で終わる。やっていること自体は本当に小さな行為なのだが、ずっと観る人の心の隅に残るだろう。
某ハリウッド映画をもじったタイトルの映像作品「The Heart Rocker」は、街で問題になっている犬の糞の報知への対処を題材としている。家の庭に落ちている見知らぬ犬の糞を、かつては道の外に捨てていたが、この行為を領土や侵入という概念に照らして現地の政治的状況と鑑みた際に糞が「地雷」のようだと思い始めた作者は、爆弾処理班の防護服を着て、犬の糞を処理するようになる。やはり、やっていることはアホであるが、笑った後に考えてしまう。
日本の若者が海外に行かなくなったと嘆かれる現代において、外に出た者のみが知り得る体験が生かされた作品が並ぶ展覧会。目撃しておくべきだろう。