阪本トクロウ:2001−2009 WORKS |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 7月 13日 |
公園、遊園地、電信柱、横断歩道、団地。阪本トクロウは、現代日本のなんでもない日常風景を絶妙な構図で構成し、空間の間(ま)を生かした画面を作り出す作家である。人工的なものが散りばめられながら人がまったく登場しない風景は、淡い色調が寂しさを一見漂わせるものの、最終的にはその中にすっと鑑賞者を入り込ませる優しさがある。軽井沢のギャラリー桜の木で開催された「阪本トクロウ 2001-2009 WORKS」は、いずれの部屋も自然光が入り込むよう設計されている気持ちのいい空間の中、2001年から現在に至る過去作約20点を見せる好企画だった。 ただ、以上に記したような、これまで幾つかの展覧会で見てきた阪本の作品に対する私の印象が大きく変わった作品として≪Sky≫のシリーズがある。あたかも飛行機に乗り上空から雲の広がる下界を見下ろす光景の描写は、既に2008年に発表されているものの見逃しており、今回のチラシで初めて知り[fig. 1]、会場で実見した≪Sky≫の印象はあまりに鮮烈だった。私にとって阪本の描くものはあくまで日常的な目線から見た風景であり、今回の個展を見るかぎりでは、≪呼吸≫(アクリルガッシュ・雲肌麻紙、100.0×100.0cm、2008年)[fig. 2]や≪午後≫(アクリルガッシュ・綿布、130.0×162.0cm、2001年)[fig. 3]のように空が画面の半分以上を占める作品があるにせよ、それがあたかも神の視点を獲得することはなかったのである。 地上から天空への視点の移動はあまりに劇的である。Google Earthによって衛星画像が自宅のパソコンから気軽に手に入れることのできる現在においても、空は私たちが自由に支配できるものではないという点で未知の存在と言える。制作の背景には≪離陸≫(2008年)という飛行機の窓枠から空を見下ろすシーンを描いた作品が大きく関係していると思われるが、阪本はその窓枠を取り外すことで、私たちの生活に日々変わらず存在している空をきわめてシンプルかつ鮮やかに提示することに成功した。 阪本が日本画科出身であることだけを理由とするには抵抗を感じるが、制作当初の作品から変わらず認められる間、ないし余白への関心が、まさしく何もない空間である空へと向かったことは必然のようにも思われる。阪本が水墨や岩絵具を使用する作家であれば表現はまったく違うものになっていただろう。先だって清澄白河のKIDO Pressで発表され、軽井沢でも展示された初めてのエッチング作品は作家の手の痕跡を残すものだが、阪本のペインティングは基本的に筆跡がほとんどわからないようアクリルで塗られており、その効果が≪Sky≫にも発揮されている。べた塗りが作家の存在を希薄にし、風景の匿名性を増幅させ、鑑賞者が画面の中にすっと入り込むことができるよう仕掛けているのである。 だから最後に、比較対象としてニッポン画家・山本太郎の作品を挙げたいと思う。阪本にカーネルサンダースがにこやかに笑うケンタッキーフライドチキンの看板を描いた≪午後≫(アクリル・雲肌麻紙、116.7×116.7cm、2002年)[fig. 4]という作品があるが、同世代の山本にも、カーネルの画像を引用した作品がいくつかある。しかし山本がカーネルの〈キャラクター〉としての個性を全面に押し出しているのとは対照的に、阪本はその看板を風景の一部として描くことで看板の本来的な意義である広告性=個性をそこから剥奪している。この対照性から、それぞれの認識の是非を議論するのは適切ではない。どこにでもあるような匿名的な風景と、そこから抽出できる記号の拡大解釈は、一つの振幅の中での程度の差異にほかならないからである。それゆえ私は今、阪本の作品と山本の作品とを同じ線上にあるものとして並べて見てみたい思いに駆られている。阪本の作品はそれだけで十分にオリジナリティがあるが、他と比較することでその特性だけではなく現代日本の姿がより強くあぶり出されるのではないか。 参照展覧会 展覧会名: 阪本トクロウ:2001−2009 WORKS |
最終更新 2015年 10月 24日 |