大西伸明:垂直集め |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 4月 28日 |
大西伸明の作品がわからない。個展「大西伸明展 垂直集め」(2009年4月13日〜5月16日)の会場となったC・スクエア入口前には、「会場内の作品はすべて美術作品です。これらの作品は、私たちの眼がいかにモノの表層しか見ていないかを教えてくれるでしょう」と書かれた看板が立っているから、おそらくそのとおりなのだろう。大西は対象をシリコンでかたどり樹脂で成型、彩色し、それを作品として発表している。ただしここで「おそらく」と留保してしまうのは、鑑賞者がその言葉ないし事前の情報に多くを負い、作品からはほんのわずかな発見を通してしかその事実を知りえないからにほかならない。 たとえば過去発表された≪kyatatsu≫(FRP・エポキシ樹脂・アクリル絵の具・ウレタン塗料、2008年)という作品はその足が半透明になっており、フェイクであることをこちらに仄めかす要素がある。あるいは発電所美術館での個展※1で発表され今回も出展されている≪mini kupa≫(FRP・アクリル絵の具・ラッカー塗料・ウレタン塗料、2008年)[fig. 1]も、外側こそ彩色が行き届いているが内側に視線を移せばそれがなされておらず、そこでは本物の車体にはないぬるっとした質感が生々しくさらされている。しかしそうではない今回の新作の、≪toruso-binasu≫(FRP・アクリル絵の具、2009年)[fig. 2]や≪sukoppu≫(FRP・アクリル絵の具、2009年)、≪dojiboru≫(FRP・アクリル絵の具、2009年)[fig. 3]といった作品はどうか。台座にさかさまに展示されたビーナスのトルソー、先端を中心にところどころ錆び付いている年季の入った深緑のスコップ、中の空気が減りぐにゃりと凹んだおそらくゴム製のボール。それらはなんらかの外的力によって原形が崩されたものたちである。にもかかわらず同じ形のものが二点一組で展示されているということが〈なにかおかしい〉ということを匂わすが、先に記した要素は認められず、それがフェイクであると視覚的に理解することは難しい。私たち鑑賞者はそれがフェイクであることを予め知らされている。けれどもその説明がなかったとして、本物なのかフェイクなのか主体的な判断を下せないということに気づいたとき、大西の作品は不気味なまでの存在感を放つのである。 立体作品であり対象物に対して忠実であるということから、大西の作品を須田悦弘や前原冬樹といった木彫作家のスーパーリアルな作品と比較することは可能だろうか。錆び付いたカミソリやひからびた蟹など、モチーフについて言うなら前原のそれは大西と近似性が認められる。しかし前原の作品が一木からなりその超絶技巧が鑑賞者の目を見開かせるのとは対照的に、大西の作品はそのような受け止められ方をされているわけではなく、そもそも大西の目的が技巧を賞賛されることにあるわけではないことは明らかだろう。あたかも本物であるかのような質感をもたらす着彩技術の高さにまず目が向くとしてもそこだけで終わらないのは、本物か否か、という二項対立を脱臼させる構造を大西の作品が内包しているからである。あるときは部分的に彩色されていないことが全体としての不透明さを生み、またあるときは一点だけではなく二点同じものが併置されているその反復性が鑑賞者に疑問と心理的な不安をもたらす。大西の作品に接するとき、なんだかよくわからないものと相対する、そのときの恐ろしさを感じる。モチーフの多くがとるに足らない日常的にありふれたものであり経験や知識として見知っているものであるものの、大西の作品は既知のものをほぼありのままに提示することでその未知性を奪い返そうと試みる。それゆえに私はこう書き連ねてみても、いまだその作品の真たるところがわからないでいる。 脚注
参照展覧会 展覧会名: 大西伸明:垂直集め |
最終更新 2010年 7月 05日 |