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「翳りのきわで」 觀海庵落成記念コレクション 展
レビュー
執筆: 小金沢 智   
公開日: 2008年 9月 30日

    ハラミュージアムアーク開館20周年を記念して作られた特別展示室、「觀海庵」(かんかいあん)が2008年7月27日にオープンした。展示室の目的は、原美術館館長・原俊夫の曽祖父にあたる明治時代の実業家・原六郎が収集した古美術のコレクション(「原六郎コレクション」)を紹介することにあるが、同時に現代美術の展示も行っていることが大きな特徴になっている。
    展示室はコレクションの一つである狩野元信、永徳らの障壁画が置かれていた三井寺日光院客殿をモデルにしており、ハラミュージアムアーク既存のギャラリーと同様磯崎新による設計である。磯崎自ら「かぎりなく翳りの深い空間」※1と言うように、黒を基調にした展示室は通常の美術館と比べてかなり薄暗い。古美術を保護するために照明を抑えることは一般的だが、觀海庵は古美術だけが展示されているのではないのだから、この暗さは注目されてよいだろう。
    これらのことから、今回は以下の点について考えたい。それは、古美術と現代美術を展示するということはどういうことなのか、ということである。別々に展示することでは見受けられない何かがあるのでなければ、同時に展示する必要はない。そしてこれは、現代美術にとって「翳り」がどういった効果を持つか、ということにもつながってくる。ホワイトキューブの方がいいではないか、という結論に至っては仕方がないのである。磯崎による監修がなされた同展を、順を追って見ていきたい。

fig. 1 アニッシュ・カプーア 《虚空》(1992年)
© 2008 Hara Museum ARC

    ドアを開け、展示室前室で観客をまず迎えるのはアニッシュ・カプーアの《虚空》(1992年)[fig. 1] である。写真からはイメージしづらいかもしれないが、まず暗がりに浮かぶこの作品が、錯覚によってわたしの視線をはるか遠方まで高速移動させ、光ではなく闇が支配する世界へと導く。
    右側にある自動ドアから展示室に入り受付を済ませ、壁に目をやると、杉本博司の《ATLANTIC OCEAN Cliffs of Mother》(1989年) が架かっている。中央に配された水平線が空と海をわかつ、モノクロームの海景。《虚空》から《ATLANTIC OCEAN Cliffs of Mother》へ。ここでわたしの視線は暗闇を抜け出し海へと向かうが、その作品は、海もまた果てがなく、暗闇と同質であることを教えるだろう。《虚空》はその暗がりに、《ATLANTIC OCEAN Cliffs of Mother》はその水平線に目が行き、見つめ続けることで次第に距離感が失われていくという点でも共通している。
    この先に展示されているのが、円山応挙の《淀川両岸図巻》(1765年)である。淀川を中心に両岸の風景を描いた絵巻物だが、そのほとんどすべてが中央から上下を反転したように表されている。「川の中央を進む船から淀川両岸の風景を見た視点で描いた」※2ためと説明されるが、遠近法が用いられず、前景と後景がその区別なく描かれている様はなんとも奇妙である。
    ただし、これはあくまでわたしにとっての感想であり、当時の人びとはこのような空間処理を不思議に思っていなかったに違いない。そうでなければ、日本人もまたブルネレスキよろしく遠近法を発明し、絵画にそれを応用したはずである。応挙にかぎったことではない。これは、江戸時代以前の人びとに遠近法が必要なかったことを示しており、また、彼らがわたしとは違う見方で世界を認識していたことを意味している。
    子供の絵を思い出してほしい。彼らが描く絵は往々にして遠近感が希薄である。奥行きのない画面に、実際のサイズとは異なる大小さまざまな事物が渾然一体となっている。そういった子供が、成長し、いくぶん不正確であれ遠近法にならった絵を描き出すとすれば、それは何らかの形でその方法を学んだからにほかならない。誰からも何からも学ばず、自ら遠近法を発明した子供がいるだろうか。つまり、視覚とは先天的なものではなく後天的な学習によって身体化されるものであり、その学習とは、生活をしている社会の認識論の違いによって異なるのである。それはたとえ、同じ国に住んでいたとしてもそうであるだろう。

fig. 2 展覧会『「觀海庵」落成記念コレクション展-まなざしはときをこえて』前期の展示風景。左)狩野永徳《虎図》(桃山16C)、右)狩野探幽《龍虎図》(江戸・寛文11年、1671年)、中央)イヴ クライン《青いスポンジ》(1960年) © 2008 Hara Museum ARC

    以上が、先の問いに答えになりそうだ。古美術と現代美術を展示することで、それぞれの差異はよりいっそう明確になるのである。この差異とは、作家の性別であり年齢であり人種であり、制作された時代であり土地であり、作品のジャンルであるだろう。そうしてわたしたちに、視覚のあり方とはけっしてひとつに限られるものではなく、複数存在するということを提示する。どれが正しく、どれが誤っているということではない。それは絵画表現の問題だけにとどまらず、人間のあり方もけっしてひとつに集約されないことを示している。

    そして、現代美術にとっての翳り。ホワイトキューブに慣れてしまうと明るさこそ作品鑑賞にとって欠かせないもののように思ってしまうが、必ずしもそうではないということである。暗闇が逆説的にわたしたちの視覚を刺激し、また、作品によい効果を与ええるということをここは示している。展示室中央に展示されていたイヴ・クラインの《青いスポンジ》(1960年)[fig. 2] は、暗闇だからこそそれ自体が光源かのような存在感であったし、狩野永徳《虎図》(16世紀) の右下に置かれていた須田悦弘《鉄線》(2001年) の枯れた佇まいは、陰った場によく似合う。もちろん、觀海庵の空間がすべての現代美術にとって適当なわけではない。今回では、草間彌生の黄色い地に黒いドットが点滅する《かぼちゃ》(1991年) は色彩がきつく、この空間に必ずしもふさわしいとは思えなかった。ホワイトキューブだからこそ存在感を発揮する作品というのも当然あり、そういった見極めも今後必要になってくるだろう。ともあれ、翳りという制限を加えられることで現出する作品のあり方は、多様化する現代美術のためによりフラットな空間であろうとする美術館のあり方に、一石を投じるものである。

    最後に、マーク・ロスコ《赤に赤》(1969年) の隣に展示されていた《チボリ》(2007年) の作者ヤン・ファーブルが、ルーヴル美術館で行った試みを紹介したい。個展「The Angel of the Metamorphosis」(2008年4月11日-7月7日)でヤンが作品(彫刻、素描、ビデオ、インスタレーション)の展示場所に選んだのは、フランドル絵画展示室だった。ミミズや昆虫をモチーフにした作品など39点を、荘厳な宗教画の前に展示するなどしたのである。ここ数年ルーヴル美術館は現代作家の展示を度々行っているというが、雑誌でその光景を見たときには、ヤンの実験的なアイデアに驚いたものだった。

    日本では掛軸や屏風といった作品の体裁の問題もあるのだが、現代美術を専門に扱う美術館はそれらを展示するガラスケースが常備されていないことがほとんどであり、古美術を扱う美術館は現代美術を展示する素地がない。どちらにも精通している学芸員の不在も理由であるだろう。現代美術と古美術を同時に展示する大規模な展覧会がかつて森美術館で開かれたが(「ハピネス:アートにみる幸福への鍵--モネ、若冲、そしてジェフ・クーンズへ」、2003年10月18日-2004年1月18日)、以来特筆すべきものは見られない。
    そこで、今回の觀海庵である。コレクションを元にした展示は十分魅力的だったが、今後は現代作家を招聘し共同して企画展を作り上げるなど、さらなる展開が行われないものだろうか。もちろん、古美術も同時に展示して、である。そうすることで觀海庵は、そのユニークさをよりいっそう強固なものにするに違いない。

脚注
※1
磯崎新「觀海庵の設計について」、『原六郎コレクションと觀海庵』、財団法人アルカンシェール美術財団 原美術館、2008年
※2
児島薫「10 淀川両岸図巻」(「作品目録・作品解説」)、『原六郎コレクションと觀海庵』、財団法人アルカンシェール美術財団 原美術館、2008年

参照展覧会

展覧会名: 「翳りのきわで」 觀海庵落成記念コレクション 展
会期: 2008年7月27日~2008年11月30日
会場: ハラ ミュージアムアーク

最終更新 2010年 7月 18日
 

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