光村健:出現しつづける内証 |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2009年 9月 25日 |
川上 幸之介≪Moneylender≫2008年|oil on canvas|91×72.7cm|画像提供:art project frantic copyright(c) Takeshi KOMURA 普段人間の顔は、人の個性を示す身体の部分として考えられている。顔は、特別性の「印」または主体の内的な世界への「窓」として理解されている。顔は感情や考えのような魂の行為を明らかにする(暴く/表す/平面化する/外化する)身体の面である。一言でいえば、顔が見せる… しかし、美術における顔は、ある時違う働きすることがある。 art project franticは「出現しつづける内証 光村健による一連の肖像」展を開催します。光村の肖像は、まず最初に彫刻的な特徴によって感動させる。顔(または頭)はカンヴァスの次元を侵入し、「形象化された重量」として表れてきている。つまり、中心に位置付けられて、イメージの境界まで広がり、動かせない形成的なボリュームとして絵画を占める。光村は造られた人に顔の特徴を彫る。つまり、「溝」、「腔」、「くぼみ」、「えくぼ」はキャラクターと彼の経験を構成する。光村の顔はまず「明確な重力」と「幾何学的な大量化」という印象を与える。つまり、観客は描かれた人たちを「物理的な全体性」、「固体の存在」、「固定の表現」として受け取る。 しかし、観察し続けると、光村の顔は全体を見せないということを疑い始める。つまり、それぞれの顔において、ある二重性、不確かさ、分裂を気付くことができる。たとえば、「Moneylender」(「金貸し」)は笑顔を示すが…もしくは脅迫する。彼は金を貸すか借金を取り立てに来たのか?「General’s Daughter」(「将軍の娘」)は若くて優しいが、それと同時にプライドを持ち、父の立場と権利を孕むのか?この「重力を持つ形象」は不安定性を発生させる。顔の面は「すべての表面が提示されない」、「キャラクターのすべての側面は明らかになっていない」という印象を与える。顔はすべてを見せないと主張している。絵画の「物理的な全体性」は、喪失を孕むと理解し始める。キャラクターの「固体の存在」は不在の感覚を生み出す。表現は「内証の出現」に変わる。つまり、内密の絶え間ない明示、不明瞭の永続的な発生、不可視の頑固の表れである。 「狡猾なトポロジー」をもつ、このように形成されている形象は、現実の人間の外見と関係なく、人工的だと言えるだろうか?「いや、不確かさと二重性こそ人間の自然の特徴だ。」と作家が強調している。具体的なモデルを使わず、この絵画で表現されている人間は想像的だと言えるだろうか?「そうでもない。映画のキャスティングのように。キャラクターをつくるが、世の中このイメージに当てはまる人が必ずいる。」と光村は説明する。 光村の表現の「自発的なパラドクス」、「相反の力」はいくつかの形成の切っ掛けを持つ。その一つは文学にある。日本のマンガは光村の刺激のソースである。マンガのような物語のスタイルの関係においては、彼の絵画のアイコニックの性格、固定されたキャラクターのモチーフ、明確な輪郭線、「鋳型」の触覚感性と物語上のタイトルを考えられる。一方、光村はドストエフスキーの文学、特に「カラマーゾフの兄弟」(1880年)を読んでいる。この関係においては光村の主人公の「悪と善」に対する不定の立場、見る手/読む手の疑問に基づいたキャラクターの読み取り方と(光村の表現を使えば)登場人物の「暗い情熱」を理解できる。この様に、不確かさに確かな形を与えるためにマンガとドストエフスキーが出会う。 「出現しつづける内証」は肖像のジャンルで表現されるだけではない。光村は(肖像と多数のリンクを持つ)家を描く。第一に、家は彫刻のように表現されている。つまり、中心的な位置、記念像のような態度、強調された触覚感、ボリュームは、「家」を特別の意義を持つ「対象」に変える。それはすでに風景ではない。「顔・頭」と「家」両方は我々の視覚経験に一定の物理的な強調を持つ物体として提供されている。第二に、肖像と家の関係性は言語の次元にも見つけることができる。日本語の「うち」は「家」を意味し、所属の場(家族、会社など)の言葉づかいにも表れる、英語に「me」(「私」)として訳される場合もある。したがって、「いえ」は「私」を表象し、「私」は「いえ」を意味することができる。第三に、「重く見せられている」、しかし彼の想像的物理上の重さとボリュームは「実在主義的な重さ」も持っている。つまり、家の中に確かに何か(恐ろしいこと(?)、避けられないこと(?)、汚いこと(?))起こった/起こると感じられる。家の面(描かれた人の面と同様)見せないが、それと同時に隠さない。つまり、彼らは「視覚的な質の収縮」を突き進み、内密性を出現し続ける。このように、「家」は「主体」になる。「家」は「キャラクター」として行為を生み出す。光村健の「顔」と「家」両方の内に、隠れたとんでもないことが行われている。 キュレーター: ロディオン・トロフィムチェンコ Takeshi Komura 全文提供: art project frantic |
最終更新 2009年 10月 02日 |