パランプセスト―重ね書きされた記憶/記憶の重ね書き Vol.3 井上雅之 |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2014年 9月 08日 |
手の記憶――井上雅之のために 回転に合わせて「形」が手の中から現れ、すぐ目の前に存在する。ロクロを使うことは、ものをつくる喜びをもう一度感じることでした。これが僕にとっての初形[しょけい]です。 「初形」という言葉はprototypeの意味だろう。すなわち原型であり、起源のかたちである。轆轤の回転運動において、井上は、かたちづくることの起源へと立ち戻ったのであった。「もう一度感じることでした」という一節は、それまでの彼が油彩による表現を目指していたことにかかわるのだが、ここは作家論のための場ではないので、これついて述べることは差し控えることにする。ひとつだけ注意を向けておきたいのは、小児の描画行動が中心のずれた円を重ね書きするところから始まるということだ。描画の始まりに回転運動が見出されるのは人間の腕の構造に由来するわけだが、このことは轆轤への連想をさそいつつ、ワルター・ベンヤミンが起源を渦に譬えていたことを思い起こさせずにはいない。 かたちづくることの起源というのは、井上が原初の土器を意識していたということではない。「起源」は、歴史の一回生にかかわる「原初」の同義語ではない。起源は一回限りの歴史的な出来事ではなく、かたちづくることが行われるところであれば、どこでも、いつであっても見出される。それはかたちづくる行為が行われる「いま・ここ」において、幾度も繰り返し現出するのだ。かつて岸田劉生は、「造形芸術の中、工芸は、最も直接な「内なる美」の発露である」として、その成立の契機を「「人」の内に生きている一つの本能」(「リーチを送るに臨みて」、1920)に求めたが、このとき劉生が見つめていたものこそ「起源」と称されるものなのである。だから、「僕にとっての初形」という言表は、厳密を期するならば、まちがっているといわざるをえないのだが、それにもかかわらず、「僕の」という個人的な出来事として起源を捉え返すことのできるところにアーティストの矜持、あるいは存在理由があるというべきだろう。 「いま・ここ」の「いま」は時間を「ここ」に集約し、「ここ」は空間を「いま」に集約する。逆にみれば、すべての時間と空間のすべてが集約された「いま・ここ」は、時間と空間の起源だということもできる。とはいえ、この起源は一点に帰するものではない。「・」を中心に「いま」と「ここ」とが入れ替わり立ち代わり輪を描いて場所を変えてゆくペア・ダンスの場、まさしく渦と呼ぶにふさわしい有りようを示しているのである。テオドール・シュベンクによると、流体中で異質なもの二つが接触するところに渦が生ずるということだが、時間と空間、通時性と共時性が「・」を介して漸近するところに起源の渦は生じるのであり、その渦は、轆轤によって成形される器に体現されている。轆轤による成形は――土の粘性を活かすべく――左手と右手のペア・ダンスの螺旋状の軌跡において行われるからである。先に引いた言葉に関連する経験について、井上は別の場所にこう書いている。 その後数年間、ロクロを用いた制作を続けることになるのですが、「焼物だったら茶碗を作ればいいんじゃないか、その方が意味がある。」などと思い込んでいました。しかし思い返せば茶碗や壷の姿ではなく、ロクロの上で立ち上がる土を見たいがために、器物の形を借りていたのに過ぎなかったのです。 「立ち上がる土」は、そのなかに「うつろ」をかかえて器となるわけだが、そのうつろこそ渦のくぼみに当たるのである。* 人類は、多数派を占める右利きにもとづく文明を営々と築いてきた。轆轤も例外ではない。そこで成形の主役を担うのは一般に右手なのだ。とはいえ、右手がはたらきをまっとうするためには左手との協働が、どうしても必要となる。口縁をかたちづくるべく右手が土を挟んで挽[ひ]き上げてゆく作業は、左手の助けなくしては成り立たない。 とはいえ、左手と右手のはたらきの違いは歴然としている。その違いが、右利き文明の在り方にかかわるのはいうまでもないとして、右手の文明が人間の進歩と足並みをそろえて成り立ってきたことを思うとき、左手は、がぜん文明論的な意味を帯びてくる。右手の利便性をあたうるかぎり高めるべく、その延長において機械化を推し進めてきた右利き文明は既に行きづまり、進歩の主軸を成してきた工業が限りなく相対化されてゆく時代が既に到来しているからである。一般化していえば事物をかたちづくることの社会的意義が大きく下落してしまったのだ。 このことに関連して、アンリ・フォシヨンが興味深い指摘を行っている。フォシヨンは、産業革命が進展するフランスをあとにタヒチへと渡ったポール・ゴーギャンの工芸のしごとにふれて「この手は失われた秘密を掘り起こす筋金入りの手であった」として次のように書いているのである。「手に捧げる」(杉本秀太郎訳)から引く。 鋭い感覚をそなえたこの人は、自分の繊細さをそのまま敵にまわし、芸術が上品に洗練された色調のなかに埋没させてしまったあの濃密な質量を、芸術に取り戻させようとする。そしてこの方向に進むにつれて、かれの右手は器用をすべてかなぐり捨て、左手から、けっして形に先んじないあの愚直を学び取る。左手は右手よりも不慣れで腕前に頼ることがずっと少ないので、左手はゆっくりと、心をこめて、事物の輪郭をなぞってゆく。 井上は、轆轤による制作のあと、螺旋状の軌跡を身に帯びた陶器の破片をケルンのように積み上げる《untitled》という作品を制作し、最初の個展で発表することになるのだが、そこには、かたちづくることにかかわる危機の意識を読み取ることができる。80年代の半ば、「もの」を主軸としていた工業社会の価値意識から、情報という「こと」を主軸とする価値意識への転換期に、この作品はつくられたのだ。この頃をさかいに右利き文明の危機が隠れもないものとなっていったのである。井上が《untitled》を最初の個展で発表したことは極めて意味深長であり、また、アイロニカルでもある。井上は、は右手がリードする造型の墓標を――換喩的にいいかえれば右手の墓標を――建てることから、作家としてのキャリアをスタートさせたのだ。* 1995年は情報化社会の進展にとって大きな転機の年だった。Windows95が登場し、インターネットが一般社会に急速に広まりはじめたのだ。阪神淡路大震災もその重要な契機となった。震災に際して、インターネットによる情報のやりとりが大きな役割を果たしたことで、ネットの個人利用や商業利用に拍車がかかることになったのである。 ただし、阪神淡路大震災は、情報化社会の深化をうながす契機となったばかりではない。それは、情報化社会に強烈な否[ノン]をつきつける出来事でもあった。社会の情報化をことほぎつつ、「もの」から「こと」への傾斜を呑気に滑走していたひとびとに対して、震災は「もの」の存在感を残酷なかたちで突きつけたのである。倒壊するビルディングや、火炎に呑みこまれる町々のすがた、あえなく横倒しになった高速道路の情景は、生活の地平を成す事物の次元を深甚に意識させずにはおかなかったのだ。情報化社会の根底に横たわる物質の層が露頭してきたのである。これは、いってみれば抑圧されたものの突然の回帰であり、不気味なものの登場であった。 神戸市出身の井上は、この震災で肉親を亡くす経験をしている。その直後に制作されたのが、このたび出品してもらうことにした《K-953》だ。そもそも作品なるものは、個人的な経験に還元しえない存在であるのだけれど、瓦礫と化した神戸の街の光景が、この作品に影を落としていると考えるのは、ごくしぜんなことだと思う。 ただし、急いで断っておかなければならないが、この作品は、残骸を彷彿とさせるようなすがたをまとってはいない。残骸というなら、むしろケルン状の《untitled》の方が、そう呼ぶにふさわしい形姿をしている。これに対して《K-953》は、あっけらかんとした単純な形態を成している。ひとことでいえば、乳鉢状の巨大な器と、巨大な乳棒のような形体を組み合わせたものであり、性的な暗喩を思わせこそすれ、かたちのうえで大震災の光景を想い起させるところは微塵もない。では、いったいどこに阪神淡路大震災の影が見いだされるというのか。説明しよう。 焼けただれたようなテクスチャーに震災の記憶を感じ取ることも不可能ではないものの、それ以上に重要なのは、この作品が上へ向けて開かれた円錐状の器のかたちをしていることである。そこに渦のかたちが、つまりは起源の形象が見出されるからである。 この2、3年前から井上のしごとには、巨大な碗状の形態があらわれるようになっていたのだが、それらは常に横倒しの状態で設置されていた。横倒しにするというのは、「茶碗や壷の姿ではなく、ロクロの上で立ち上がる土を見たいがために、器物の形を借りていたのに過ぎなかった」という発想に、おそらくかかわっている。ところが、《K-953》では碗状の形象が、垂直に――まさしく碗のように――置かれたのである。しかも、横倒しの器たちが轆轤で仕上げられていたのに対して、《K-953》は轆轤を用いずに成形されたのであった。すなわち、井上は、轆轤によって碗のかたちを整えるのではなく、みずから器の回りをめぐるやり方で、つまり、巡回する身体を以てかたちを整えていったのである。そのような手法をとったことについては、轆轤で回転させるには規模が大きすぎたという物理的な理由が挙げられるのだが、しかし、ここにはそれ以上の思惑がかかわっていたように思われる。 轆轤の回転が、起源の渦に通ずる機微については、既にふれたが、身体の運動を以て轆轤の回転に代えるということは、轆轤が発生させる螺旋状の運動に作者みずからが身を委ねることであり、また、左右の手のはたらきを、ともども身体において引き受けることを意味する。つまりは、作者が渦じたいになることを、かたちづくることの起源となることを意味する。大震災によって出現したカオティックな剥き出しのマテリアルと向かい合った衝撃、その衝撃に対する応答として、井上は、このような所作へと向かったのだ。「これが僕にとっての初形[しょけい]です」という井上の言葉を先に引いたが、その直後に、井上は、こう書いていた。「水が水を呼ぶように、一筋のかぼそい清流が変貌し大河となるように、「形」から㍊ ??形」を生み出し、変容させ続けることが僕の仕事です」、と。 剥き出しのアモルフなマテリアルから「初形」へ。性的なものへと連想を誘う巨大な乳鉢と乳棒の関係は、かたちづくる営為を性の豊穣さに見立てた隠喩として、すなわち、かたちづくることへの持続する意志の表明として読み取るべきなのかもしれない。 * かたちづくることの起源へとみずからを化すること。井上にあって、これは、もちろん右利き文明を改めてやり直すということではない。轆轤の回転を類感的[シンパセティク]に反覆しつつ、その底部へと降ってゆくということであり、それによって、かたちづくることの臨界領域にみずからを位置づけることなのだ。造型にかんする身体化された集合的記憶の臨界点に立つことだといってもよいが、それが右手の記憶を相対化することでもあることはいうまでもあるまい。《K-953》の制作が「ものをつくる喜びをもう一度感じること」を可能にした轆轤との出会いへの回帰であったとして、しかし、これ以後、井上は、そこから轆轤へと向かうことはなかったのである。時を経ずして、井上は、タタラ(粘土板)による制作へと移行してゆくのだ。タタラを組み立てて箱状のものを作り、それを結合し、組み上げてゆく巨大な造型である。このたびはそのシリーズのうち《H-101》と称する作品を出品してもらうことにした。 器の形態で渦の形象に最も近いのは碗や鉢である。そこから甕を介して壺へと器のかたちは閉じられてゆき、逆に皿鉢、皿、板皿へと開いてゆく。板皿は、平らな板であるから、既に「うつろ」を含まない。器の臨界を越えている。すなわち、板皿は、器が空間を包み込んでゆく変容の起点、いいかえれば、そこから器物の形態が生じてくる原基とみなしうるのであり、それゆえ、板皿へとかたちが開いてゆく過程は、起源の渦の底へと降ってゆくイメージとして捉え返すことができるのだ。 井上雅之がタタラに目を向けたとき、渦を成す起源の根底へと降ってゆくことを意志したかどうかは定かでない。しかし、たとえ結果としてであっても、回転体からタタラへの移行が、器を成す螺旋状のシュプールをたどって渦の底に降り立つ過程であったとみることは決して不可能ではない。《K-953》の制作において、みずからの身体を轆轤の渦と化したとき、彼の足が次々と――聞くところによると後ろ向きに――ステップを踏んで巡回していった地平がタタラにおいて自覚されたのだといってもよい。こうして井上は、起源という渦の根底へと降り立つことで、そこから、あらたにかたちづくることを開始することになるのである。マルティン・ハイデガーは『芸術作品の根源』のなかでこう述べていた。「作品がそれ自体を獊 ??て返すところ、そして作品がそのようにそれ自体を‐立て返しながら現れてこさせるものを、われわれは大地と名づけた。作品は、一つの世界を開けて立てることによって、大地をこちらへ立てる」(関口浩訳)、と。井上雅之は、タタラという大地の欠片を箱状に立てることで、あらたな段階へと歩みを進めることになったのだ。とはいえ、それはハイデガーの言説のように健康的かつ大げさな悦びに充ちたものでは必ずしもなかった。 《H-101》は、タタラを組み立てた箱状のユニットによって不整形な曲面を成している。全体に鳥の片翼を連想させるすがたを呈しているのだが、箱の底部の裏側が並ぶ凹面は、マットなテクスチャーの生気を感じさせない白色を発していて、印象としては巨大な甲殻類の骸を思わせる。凸面は、釉のかかったつややかなテクスチャーで内側に赤色を湛える箱が、あたかも死んで窪んだ細胞[セル]のようなすがたをして寄りあつまっている。 凹面にせよ凸面にせよ《H-101》は、きわめて不気味な形状によって人目を捉える。その形状は、脱臼したような造型性において成り立っており、未視感をさそうその歪んだ全形は、生気のない白色や、蝟集する死んだ細胞[セル]の形態と相俟って死のイメージをあたりに撒き散らさずにはいない。上部に腕首のように伸びる硫黄色の柄も無気味さを助長している。これが、みずからを起源の渦に投じるところから改めて造型を開始した井上の最初の達成であった。1995年の焦土から再出発した井上は、死のかたちを生みだすというアイロニカルな制作において、高々と最初の里程標を打ち立てることになったのである。 死と生にまつわるこのアイロニカルな造型は、両価的[アンビヴァラント]と称することができる。そして、その両価性[アンビヴァランス]と片翼のようなかたちゆえに聖書に登場するルシファーへの連想をさそう。ルシファーと称される堕天使は、人間に自由意志と知性を与えると同時に、それによって悪の動機をも与えたとされるのである、あたかも啓蒙的理性がアウシュヴィッツを出現させたように、また、かたちづくることを基軸とする文明がもたらす光と影のように。 片翼の形象は、むしろ、その両価性[アンビヴァランス]を否定するもののようにみえないではないのだけれど、翼角になぞらえることのできる部分の位置からすると左の羽のように見え、そこから少しずれたところから上方に伸びる手首のような柄に注目すると右手のかたちのようにも見える。つまり、両義性[アンビヴァランス]を、この形象は備えているのである。 * 情報化社会はかたちづくることの相対化をうながし、震災は、剥き出しの事物をアモルフに出現させることで、かたちづくることの無力さを痛感させた。ともに「もの」をかたちづくることへの思いに、一種の萎えをもたらしたのだが、しかし、震災は社会の情報化と対立する関係にもあった。震災は、情報化社会が隠蔽した世界の生地[マテリアル]を出現させることで、情報化社会の底の浅さをあきらかにしつつ、「もの」のリアルな力をひとびとが思い知る契機となったからである。しかも、復興への機運は「もの」をかたちづくることへの関心を、ふたたび奮い立たせることにもなったのであった。 だが、そのことの結果は、おおかたのところ太平楽な右利き文明の再興にすぎなかった。震災後半年あまりして神戸を訪れたとき、町々を嬉々としてダンプカーが走り回っていた情景を思い出す。しかし、井上にこの情景は、ひどく屈折したもののように見えたであろうし、屈折した構えにおいて見るほかなかったろう。「人が考え、意図するままには物は動かない、このことを受け入れてせめぎ合うことが価値を生んでいる」と考える井上は、復興の風景を前にして複雑な思いに捕らわれたにちがいないのだ。震災は、井上にとって、つくることを改めて出発させる契機となったものの、それは、つくることへの牽制の契機ともなったのである。あるいは、こういってもよい。右手を支配する集合的記憶を学びほぐし、左手に見出される「けっして形に先んじないあの愚直を学び取る」契機ともなったのだ、と。 右手であれ、左手であれ、《H-101》と呼ばれるこの無骨に変形した片手は、かたちづくることの現在における困難を、そして、手の記憶の危機を、当のかたちづくる行為によって、わたしたちに示している。 ※引用した作者の言葉は、井上雅之のHP(http://inoue.s2.bindsite.jp/)のartist statementから引いた。
[作家プロフィール] 全文提供:gallery αM 会期:2014年8月30日(土)~2014年9月27日(土) 時間:11:00 - 19:00 休日:日・月曜、祝日 会場:gallery αM |
最終更新 2014年 8月 30日 |