art-life+ vol.11 梶岡俊幸:The Birth Canal-未来へのうねり |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 4月 23日 |
墨と鉛筆。これらの画材から想起する色は黒である。けれども墨は製造地域や年代によって、そして鉛筆もメーカーや硬さによってその色が必ずしも一様ではないことを鑑みれば、黒を〈一色〉と言うことができないことは明らかである。スパイラルガーデンで行われた梶岡俊幸の個展は画材に墨と鉛筆を用い、筆致や作品形態によってその多様性を存分に示す作品群が展示された。 会場に入った鑑賞者をまず迎えるのは、幅15メートルを超す≪闇の絵巻≫(高知麻紙・墨・鉛筆、182×1530cm、2008年〜2009年)。6枚のパネルを繋げたその作品は宙に浮いているかのように地面から距離をとり、鑑賞者が動線通り左に進むに従って画面が壁面からせり出すように展示されている。そこは流水文様さながら水がたゆたっているかのような均質な鉛筆の描写で埋められ、墨がのせられている。壁にフラットに掛けられているわけではないため光が画面に均一に当たっておらず、その加減によってどこから見ても表情を変えるのが作品の大きな特徴である。中央付近に立つと、一端からもう一端へ、光の矢が画面を一直線に貫いているようにも見える。つまり「闇の絵巻」と題されながら、梶岡の作品は光がきわめて大きな役割を負っているのである。それは人工照明や自然光といった作品を照らす光だけではなく、墨や鉛筆それ自体の持つきらめきにもほかならない。 一階のカフェと二階のショップを中心に据え、吹き抜け空間(アトリウム)を有するスパイラルガーデンの構成を活かした作品が≪標≫(高知麻紙・墨・鉛筆、510×890cm、2008年〜2009年)[fig. 1]である。上下5枚ずつ計10枚のパネルからなるその作品は天窓から降りそそぐ光を一身に浴び、屹立している。先の≪闇の絵巻≫とは光の当たり方も展示形態も違うため比較が難しいが、水のイメージを担いながらより奔放なかたちがそこにはあらわれている。しかし動きがあるというよりは、その奔放な動きのままに静止していると言えばいいか。縦横比が大きく関係しているだろうが、≪闇の絵巻≫とはその性質がまったく違うようである。かつて束芋はあらゆるものを呑みこむかのような夜の海をアニメーションによって作り出したが、※1≪標≫もそのような、静かな、けれども恐ろしい海のありようを想起させる。 このように今回展示された作品全7点はほとんどが墨と鉛筆だけを用いたものであるものの、つぶさに観察すれば画面の作り方はそれぞれに異なっていることがわかる。簡単に展示の順を追って見ていこう。カフェを隔て≪闇の絵巻≫に向かい合うよう展示されている≪nocturne≫(鳥ノ子紙・墨・鉛筆・水干・膠、274×520cm、2007年)は、全体が細やかで均一なストロークの集合によって作られており、他と一線を画す一見無機質な作品である。≪韻≫(高知麻紙・墨・鉛筆、182×227.3cm、2008年)は≪夜の絵巻≫に近い水の流れのイメージが顕著だが、≪流転≫(高知麻紙・墨・鉛筆、227×546cm、2009年)は線のうねりが風の吹きすさぶ草原や荒れ狂う炎のようであり、≪うつつ≫(高知麻紙・墨・鉛筆、112.1×145.5cm、2009年)は鉛筆の線というよりは墨のマチエールが全面に押し出されている。≪夜≫(鳥ノ子紙・墨・鉛筆、128×147cm、2007年)は群を抜いて細かい線によって出来上がった、繊細で美しい作品である。 案内によれば、展覧会タイトルである「Birth canal」(産道)には「水面を描いた長大な作品が空間に屹立した時の光景を"運河=Canal"に見立て、そこから新しい何かが蠢き始める生命の根源としての混沌/闇/水、としての意味が込められてい」るという。それはそもそも水を媒介とする墨と鉛筆だからこそ生まれる世界である。禁欲的なまでのこれらの作品は、それゆえ鑑賞者に豊穣な体験を与える大きな可能性を孕んでいる。産道を通り抜けたその先に、胎児が見るのは光りある世界であることを私は信じてやまない。 脚注
参照展覧会 展覧会名: art-life+ vol.11 梶岡俊幸:The Birth Canal-未来へのうねり |
最終更新 2010年 7月 05日 |