青山健一 絵画展 |
展覧会 |
執筆: 記事中参照 |
公開日: 2011年 8月 08日 |
芸術と人生の違いは、芸術のほうが我慢できるという点だ。 アオケンこと青山健一と、彼の展覧会をやろうと話し始めてから、しばらくしてあの震災が起こりました。それ以前から決まっていたのは、アオケンも私も元々好きで、ツイッターでもそのbot.(名言集)のつぶやきに心惹かれては、時折リツイート(引用)していた詩人、チャールズ・ブコウスキーの言葉を、絵と一緒に展示に織り込むという、畏れ知らズのこころみでした。しかし震災直後、酷く動揺していた時期には、ブコウスキーの言葉はシニカルすぎて、非力なわれわれには殺伐と響き、そこで視点を変えて、有名無名問わず色々な人の言葉も集めてみよう、ということになりました。 震災から3ヶ月が経ったころ、結局わかったことは、ブコウスキーの言葉はどんなときも変わらずにぶっきらぼうで、ざらっとしたその感触や、やけっぱちのユーモアが、じたばたと生きる自分たちをクールダウンさせ、生の実感を突きつけてくるということでした。それは、軽く肩を叩いてくれる友だちや、近所の神社で気まぐれに引くおみくじのような、無責任な通りすがりだけれど、それでいてインスピレーションをくれる言葉にも思えたのです。 アオケンの絵に現れる、間抜け顔のガイコツや、ぬーぼーとした男、死んだ馬や羽ばたく鳥は、荒涼とした風景のなかに「ぽつねん」と佇んでいます。そこには寂寞感や孤独感が漂うのではありますが、むしろかれらは、まるで自分の感情の湧き出るカタチすらとらえられずに、呆然と立ち尽くしているようにも見えます。「虚無」というほどの達観した境地でもない、かぎりなく「無」に近い、無欲な明るさがそこにはあります。路地や田舎道にぽつんと立つ道祖神のように、自分のために供えられた色あざやかな花や砂糖菓子の意味すらわからず、ただ生活の祈りや感謝のしるしを受けとめているだけの存在。その「ぽつねん」とした有り様に、寄る辺ない現時点のわれわれはどこか救われる気がするのかもしれません。 今回の展示では、そんな道祖神のお供えものやメキシコの死者の祭を思わせる、ほどよく粗雑なハンドメイドの祭壇をつくるかもしれません。絵はとにかくいっぱい毎日描いているようです。渋さ知らズやお芝居の舞台でも、巨大な幕や龍神やら、即興のビデオドローイングを無尽蔵に繰り出しているところを見ると、バケツをひっくり返したような霊感が惜しみなくアオケンの上に降り注いでいることだけは間違いなさそうです。ブコウスキーの端的な言葉も、あいまにぽつんと現れます。 そして会期中、渋さ知らズオーケストラきってのきっぷのいい男たちが、詩人の三角さんや、珍しいキノコ舞踊団の暴れん坊・篠崎芽美をおびきよせては、明るい巫女の儀式ともいえそうなライヴパフォーマンス公演をおこないます。こちらもどうぞお見逃しのないよう、みなさまのご来場をお待ち申し上げております。 青山健一 Kenichi Aoyama 【会期中のイベント】 全文提供: TRAUMARIS|SPACE 会期: 2011年8月10日(水)-2011年9月11日(土) ※夏期休業:8月14日〜17日 |
最終更新 2011年 8月 10日 |