山田郁予:いいわけ |
レビュー |
執筆: 桝田 倫広 |
公開日: 2009年 5月 21日 |
山田郁予「いいわけ」展(高橋コレクション)会場風景より 画像提供:高橋コレクション copy right(c) Ikuyo YAMADA / Courtesy of Takahashi Collection マリー=カブリエル・カペの≪自画像≫[fig. 1]は、女性の社会進出が目覚ましかった18世紀末のロココ時代の華やかな雰囲気を如実に反映していると言われる。ここでカペは顎をやや上に傾け、観者を見下ろしているかのようだ。肌は透き通るように美しく、艶やかな青いサテンのドレスに身にまとっている。およそ絵画を描く格好とは思えないが、彼女はデッサン用のチョーク・ホルダーを軽々と握っており、カンヴァスにはうっすらと何かが描かれている。自信に満ちた表情と華美な雰囲気は、画家としての全能感と女性としての美しさの両面を表しているかのようだ。 自画像を見るとき、我々はそれを作者の似像であると捉える。自画像=作者(あるいは作者の心的状況の反映物)となってしまう。しかし先述に取り上げた二人の女性画家の自画像のように、自画像は、あらゆる意味で、画家そのものの姿ではない。それは、そのように見られたいと望んだ画家の自意識の像であり、その自意識が社会によって醸成されていることを踏まえれば、社会が女性画家に望んだ理想像だろう。長い前置きだが、絵画をそのように捉えることが、山田郁予の作品をみる上でのヒントになるように思える。 さて、山田郁予の個展が行われていた高橋コレクションの展覧会場へ入ると、くしゃくしゃに折りたたまれたトレーシング・ペーパーの海が広がっている。そしてこの海、よくよく見てみれば無数の顔で覆いつくされている。あるいは、少女マンガ風のタッチで、吹けば飛んでしまいそうな華奢な女性が描かれている。時間や労力をかけ、作り上げていった作品であればある程、愛着が湧き、大事にしたいという気持ちが湧きあがっていきそうなものだが、トレーシング・ペーパーは床に投げ出され、ぞんざいに配置されている。壁面を飾るその他の小品も、マスキングテープで無造作に貼られている。低音で唸る空調によって、作品が静かに翻る。 ここでは、山田が使うトレーシング・ペーパーという支持体に注目したい。トレーシング・ペーパーは、半透明故に、その裏が透けて見える。山田はこの紙の上に描くことで、我々の前で揺らめくイメージが、儚いものであることを明示する。それとともに描くという行為を通じて、紙の透明度が縮減されている。つまり、紙の上にイメージを描くことで、紙の背後が隠される。そのような過程を経て、現代の女性美術家のステレオタイプがトレーシング・ペーパー上に現出している。それはあたかも、巧妙に自身を擬装して、観者を煙に巻こうとしているかのようだ。端的に言えば、自身を現代美術なんかやっているイタイ女の子というヴェールを纏うことで、観者が見たいと感じている像を見せ、自身をその像の背後に隠しているのではないか。 同じく展覧会場に貼られたステートメントの中で、山田は以下のように述べている。
彼女は、誰かに自分を見てもらいたいために描いているのではなく、むしろ誰にも見られないために描いていると述べている。つまり、トレーシング・ペーパーに立ち現れるフラジャイルな人物やモチーフは、彼女の代わりに観者の視線の犠牲になる「ひとがた」のようなものなのだろう。彼女が執拗なまでに描く小さな顔のような形象は、あたかもその祈りであるかのようでもある。カペの絵画は、自身や社会が望んだ女性の理想像であったわけだが、山田の作品は、観者の眼を彼らが望む女性美術家のステレオタイプのイメージへと意図的にずらし、彼女自身への好奇な目線をかわしていると言えるのではないだろうか。 きっと私の主張は、的外れで間違っている。トレーシング・ペーパーの裏に眼を凝らして、その背後にある何もない壁に、私の望む山田郁予像を見てしまっている。結局、それは、彼女の像と彼女自身を同一視して見ることと、あまり変わらないかもしれない。それ故、私はトレーシング・ペーパーの上のイメージではなく、その背後に表れる仮象を眺めている隙に空気銃で撃たれるだろう。それでも、彼女の絵画が数多の「私を見て」と主張する絵画よりも人の心を惹きつける可能性があると主張したい。「こっち見んな」によって生まれる解釈の隙間があるからこそ、観者は、そこに様々な投影や補強を行い、多種多様な像を浮かび上がらせることができる。会田誠は彼女に「戦略性」がないと述べているが、それこそ、彼女の「戦略」ではないだろうか。 参照展覧会 展覧会名: 山田郁予:いいわけ |
最終更新 2010年 7月 05日 |