展覧会
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執筆: カロンズネット編集
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公開日: 2010年 6月 14日 |
人やものの存在とは、意識や感情を伴う経験によって成立する。それが視覚的、又、物質的なものであれ、実在することの多くは個々の不視覚的な経験に左右されると考える。 2005年の半ばより自己の認識をテーマに、生と死を意識し、作品には“手の殻”〈線のみで描かれ中身の抜けた手形〉を使用してきた。“線”は、実際には存在せず面上に於いて実現可能なものであり、引く・描く行為自体による身体性と、作家の見解や感情・癖等がより明確に表れる場所でもあり、存在というテーマに適する1要素であると考える。又、手相や指紋等遺伝的な要素と、職業や生活による環境的な要素のどちらも顕著に現れる“手”は、顔同様“個”を特定出来る特別な部分である。その個性をあえて消去し、殻又は箱である手形は、個々が自由に出入り可能な“モノ”として画面上に存在する。 2007年以降は制作を序除に主観的な視点へと移行、より平面的・装飾的な画面にし、単純化した細かな“文様”を用いることによっても「身体性」を表現した。装飾するという行為は、人やモノや空間を華やかに見せると同時に、空虚や欠点などと言われる“何か”を埋める行為であり、表面に出ることを望まない何かを隠す為の行為でもあると捉えている。
そして現在題材としているものは、空虚・矛盾・想像妊娠などといった不可視的な要素である。 ネット社会と言われる現在の情報社会の中では、何かと「表現の自由」を掲げて無責任な意見や情報が行き交い、なかなか実態の見えない、顔の見えないものが多い。又、CGやメディアによるバーチャルな経験が自然と増え、どこか現実や自己に対する認識が曖昧になりつつあるのではないか、思うことがある。 可視的なものや一過性のものに対する“空虚”、自由であることの中に生まれる“矛盾”と“空虚”。 そして非物質的・不視覚的なものが表出してしまう現象でもある“想像妊娠”。視覚可能な表面と、視覚不可能な内面、その相互作用。何事も、幾つかの相反する要素を持ち合わせる。 今回の個展『肯定的空虚』は、以前のものに加え線描による表現へ更に重点を置き、線描を重ねたどこか現実味のない人物を描いた作品と、顔のない人物の“顔”を描いた「仮装」シリーズを中心に、現在の制作の原点を常に振り返るという自身への戒めも込めた、“手の殻”の作品を加え構成する。 今後画面の質を変えながら、見えるものへの皮肉的な要素も含め、人々の「存在の認識」について、様々な提示をしていきたいと考えている。
加藤苑 略歴 〈※2008年4月まで「加藤怜子」の名で活動〉 1979 愛知県生まれ 2004 多摩美術大学 絵画学科 日本画専攻 卒業 、 (財)佐藤国際文化育英財団 第14期奨学生 2006 多摩美術大学 大学院博士前期課程 美術研究科 修了 ※現在 無所属にて活動
個 展 2006 「SEARCH」 (ギャラリー山口〈1F〉/京橋) 、 「MAKE SURE」 (フタバ画廊/銀座) 2007 「THERAPY」 (ギャラリー空/上野) 2009 「傲慢な空虚」 (ギャラリー山口〈B1F〉/京橋)
グループ展歴多数。
※全文提供: 加藤苑
会期: 2010年7月1日-2010年7月8日
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最終更新 2010年 7月 01日 |