衣川明子:絵画、それを愛と呼ぶことにしよう Crazy for Painting vol.6 |
展覧会
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執筆: カロンズネット編集3
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公開日: 2012年 10月 30日 |
●薄き生きもののあわれも絵の面 保坂健二朗
展覧会オープンまであとわずかとなったある日、αMのディレクターのH氏から「お願いだから衣川展のためのテキストを書いてくれ、こうなったら一句でもかまわない」と督促された。おそらくは冗談だったのだろうが、天の邪鬼の精神を発揮して詠んでみたのが標題である。要した時間は約3分。出来不出来は別として、自分でも呆れるくらいにすぐできた。 最初は「薄き生きもののあわれも絵の中に」とした。下五を今のように変えたのは、もちろん、そのほうが「絵画」とは結局のところなんであるかを、よりよく表せると思ったからである。 中七も少し悩んだ。「薄き生きもののあわれは絵の中に」とすれば、「あわれ」が絵の中に沈殿していく様すらも思い浮かべられそうで——それは衣川の絵と対峙していて感じる感覚でもあるから——気にいったりもしたのだが、しかしそれでは「薄き生きもの」や「絵」が喚起する平面性が損なわれてしまうかもしれないと思い、結果、今のようにした。 句またがりとある種の掛詞も使っている。「薄き生きものの/あわれも/絵の面」と意味では切れるが、「薄き(く)生き/もののあわれも/絵の面」という隠れた意味を、どこかで思い浮かべてもらえれば嬉しいと思っている。もちろん、「月のいと明かき面に薄き雲 あわれなり」という、よく知られた『枕草子』の一節を思い出してもらえれば、なお嬉しい。月の照る夜空が「面」と見えるのは、そこに薄い雲があるからなのであって、この論理は、今の絵画を統べるそれとなんら変わらないからだ。清少納言は「見る」ことに優れた人でもあったということでもあろうか。
いささか話がずれた。軌道修正しつつ、いっそ飛躍してしまおう。振り返るに、衣川の作品について私が書きあぐねていたのは、結局のところ、彼女の作品には「分析」を拒むところがあるからだろう。彼女の作品は、その視覚的な特性を云々しても、話が始まらない(だからもちろん終わらないし、書くこともできない)類の絵画なのだ。 衣川の作品は、「見る」よりも前に「対峙」すべきである。「見る」というフェーズに無理に移る必要はなく、ただただ「対峙」に専念すればよい。そのような「対峙」を持続させるためにか、そこに描かれているのは、「生き物」としか呼びようのない、いわば「名づけえぬもの」である。 ニーチェは人間を動物と超人の間の存在としたけれども、ここに描かれているのは、人間と動物の間のなにか、である。人間でも動物でもない、あるいは人間でも動物でもあるなにかである。すなわち、生成変化しているもの。 生成変化と言えば、懐かしのドゥルーズ&ガタリ。彼らは『千のプラトー』の中で、ヴラジミール・スレピアンに言及する形でこう述べている。「しかしどうすれば犬になれるのか?(中略)相似や類似によって作用するのではない独自のアレンジメントに入っていくようにしなければならない。なにしろ犬のほうもまた、犬以外のものに〈なる〉のでなければ、私は犬に〈なる〉ことができないのだ。」(邦訳 298頁)
私たちは、衣川の絵を、犬が見ている状況すら想像することができる。あるいはしなければならないし、否が応でも、その絵の前に立ち続けていれば、そのような面持ちが現れてくるであろう。つまり、見ている私もまた、犬に〈なる〉。あるいは犬が私に〈なる〉。 そのとき、「分析」は禁物だ。ふたたびドゥルーズ&ガタリから引用しよう。「彼ら[精神分析家]は大人の場合も子供の場合も、動物への生成変化を抹殺してしまった。動物が出てくると、そこに欲動の代理や両親の代理表象を読みとってしまう。彼らには動物に〈なること〉の現実が見えていないし、生成変化が情動そのものであり、欲動それ自体であること、そしてこれは何の表象でもないということが理解できないのだ。」(邦訳 299頁) 情動を絵画でいかに表すか、ではなくて、いかにして絵画(の体験)を情動そのものとするかについての答え(の鍵)が、ここにある。「ここ」とはもちろん、衣川の絵画のことである。 標題の句に詠み込んだ「もののあわれ」も情動と無縁ではないのは、むしろその語の英訳からわかるだろう。「a sensitivity to things」(ドナルド・キーン)、「emotional sensitivity to things」(ハルオ・シラネ)、「the affectedness—the pathos—of things」(ノルマ・フィエルド)、「the meaningfulness of mono」(酒井直樹)。様々な英訳(解釈)の試み全てが、衣川の絵画への(あるいは衣川明子への)注釈たりえているのは、決して偶然ではない。
[作家コメント] 「わたし」ではない生き物と対面する感覚や、 言葉の通じない相手と意志の疎通をはかろうとする時の記憶を、画面に擦り付ける。 擦り付けて現れた存在と向き合う作業が重要なんだと思う。 生理現象の様な、反射的な感情移入や擬人化をしてしまうような存在にするために。 顔には、意識や感情といったあやふやなものを見ることができる不安定なところがある。 向かい合っているうちに、今思い浮かべている記憶や感覚が誰に対してのものだったのかわからなくなる。 向かい合っている人の顔に、犬との記憶を思い浮かべ、描くと、混ざってきて、 わたしが描いたり眺めたりしているのが誰なのか、自分を眺めているのか、 他者を眺めているのか、他者に眺められているのか、わからなくなる。 それらが混ざったまま、わからないままの状態で眺めたい。 まぁ、そうやって混ぜたとしても、対面は一つにはなれない。 見ていながら断絶しているんだと思う。 しかし、介入しあう事はできる。画面にどう介入し征服するかではなく、 見る者(あるいは描いている自分)が描かれた存在にどう介入されるかを見ながら手を入れていく。 たかが描かれた存在と向かい合ったところで、と思わなくもないが、 擬人化っていうのは、そんなに悪いものじゃないと思う。 衣川明子
[作家プロフィール] 衣川明子 Akiko KINUGAWA
1986年ニューヨーク生まれ。2012年武蔵野美術大学大学院造形研究科美術専攻油絵コース修了。 主な個展に 2011年「人と人と他と人」(ギャラリーb.Tokyo、東京)。 主なグループ展に2011年「Essential Ongoing ~静寂と狂気~」(BankArtLifeⅢ、横浜)、2010年「家で煮つめて大事に啜る」(Art Center Ongoing、東京)。
アーティストトーク 10月27日(土)17時~18時 オープニングパーティー 10月27日(土)18時~
全文提供:gallery αM
会期:2012年10月27日(土)~2012年11月24日(土) 時間:11:00 - 19:00 休日:日・月・祝 会場:gallery αM
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最終更新 2012年 10月 27日 |