千田哲也 個展 |
レビュー |
執筆: 小金沢 智 |
公開日: 2009年 3月 12日 |
前回GALLERY b.TOKYOで行った個展※1から三ヶ月。短い間隔での個展開催だが、旧作を出さず新作6点だけで構成した本展からは早くも作品の新しい展開があった。Gallery Qで千田哲也が個展を行った(2009年3月9日〜3月14日)。 作品は前回の個展で注目した女性と仮面※2というモチーフが継続して描かれているものの、その内4点が二枚組だったということをまず指摘しておきたい。そしてその二枚組はすべて、仮面を被った女性と、仮面を被っていない素顔の女性という対で構成されていた。いずれの作品も女性はその容姿・服装から同一人物であることがわかる。 ≪Arbeit≫(アクリル・カンヴァス、53.0×45.5cm[二枚組]、2009年)[fig.1]と≪egg≫(アクリル・カンヴァス、45.5×53.0cm[二枚組]、2009年)[fig.2]は向かって左の女性が仮面を被り、右は被っていない。≪兎≫(油彩・カンヴァス、238.0×45.5cm[二枚組]、009年)[fig.3]と≪遭遇≫(アクリル・カンヴァス、91.0×72.7cm[二枚組]、2009年)[fig.4]は右の女性が仮面を被り、左は被っていない。さらに≪わたし≫(アクリル・カンヴァス、90.9×116.7cm、2009年)[fig.5]と≪おべんきょう≫(アクリル・カンヴァス、90.9×116.7cm、2009年)[fig.6]は一枚絵でありながらその画面内に二者が描かれていると言う点で、同じく対の作品と見なすことができる。 このように対の構成にすることで得られる効果とは何か?前回の個展で発表した一枚絵と比べるとそのコンセプトが分かりやすくなっていることがまず言えるが、重要なことは、女性の素顔があらわになっているために仮面を被ったもう一方の生々しさが増し、そのことによって素顔の女性のそれもさらに増すという関係性が生まれている点である。 ≪Arbeit≫の白シャツにカーディガン、チェックのミニスカートに紺のハイソックスというコーディネートは日本の女子高生の典型的な服装であり、女性と言うよりは女の子と言う方がふさわしい。けれども前回の、仮面を被った女の子が電話をかけている≪She calls papa≫(パパに電話)の流れを汲めば、題名にある「アルバイト」が一般的な意味でのそれではなく、売春を指していることは間違いないだろう。いわゆる「援助交際」である。1990年代後半に全国的な規模で認識されていった言葉だが、私と同じく1982年生まれの千田は、まさに同年代の間でその言葉が流行したことを覚えている世代である。学校内での「あの子は売春をしている」という噂は事実であるか否かわからないが確かにあり、それは対象の女の子を多分に生々しく感じさせはしなかったか。それが思春期の異性からの屈折した目線だとしても、そのとき生まれざるを得ないアンビバレンスな感情が、ここにはありありと表れていると私は思う。 さて、これだけでは旧作にプラスアルファしただけのように思われてしまうかもしれないが、今回と前回の個展における最大の相違点は、作品に漂う物寂しさである。すべからく仮面を被ることで獲得していた個々の強さのようなものが、今回はむしろ弱さに転化しているように見えるのだ。前回の個展について私は、「そこに表されているのはむしろ女性の強さ、したたかさであり、自らをも含めた昨今の男性一般の情けなさではないだろうか」と書いた。しかし仮面を剥いだその素顔を見てしまった以上、もはや強いや弱いなど、ある一面だけをフィーチャーするわけにはいかない。一方ではつまらなそうな顔をして立ち尽くしながら他方では巨大な頭でもって絵本を夢中で読む《おべんきょう≫や、膝をついて恨めしそうな顔でもう一方を見つめる≪遭遇≫などからは、決して一義的には捉えることのできない各人が持つ内面と外面の非対称性が表れている。≪Arbeit≫と≪兎≫を除いた4点が、仮面を被っていない側が被っている側を見つめていることからもその構造は明らかだろう。私の中にいるもう一人の私を、ただただ見つめるだけの私。全体的に擦れたマチエールが、その間のディスコミュニケーションによる痛々しさを増幅させる。私たちは〈他人〉がわからないのではない。私たちはまず、〈私〉がわからないのである。ここでコミュニケーションの不通は、他人ではなく自身へと向けられている。 千田のこうした表現は、一部の人間にしか共有できない世代論と言われるものに属すのだろうか?それともより広範な共感を得られるものなのだろうか?私は千田の作品だけではなくその受け入れられ方も、これから注視していきたい。 脚注
参照展覧会 展覧会名: 千田哲也 個展 |
最終更新 2015年 10月 27日 |